東京の井戸

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『知的生産の技術』を読んだ。勉強こそ「方法」が大事

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こんにちは、東京のひとです。

今日は梅棹忠夫『知的生産の技術』を読みました。

第94刷を数えるベストセラーである同書は、1969年の刊行でありながら、現在でもなお色褪せない「考える方法」を与えてくれる良著でした。

 

 

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今もなお残る学校教育の問題

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この本で、わたしがかこうとしていることは、要するに、いかによみ、いかにかき、いかにかんがえるか、というようなことである。

『知的生産の技術』

 

学校では、ものごとをおしえすぎるといった。それとまったく矛盾するようだが、いっぽうでは、学校というものは、ひどく「おしえおしみ」をするところでもある。

…知識はおしえるけれど、知識の獲得の仕かたは、あまりおしえてくれないのである。 

『知的生産の技術』

魚を与え、釣り方を与えないのが学校

この本は1969年の刊行ですが、上に引用したような筆者の問題意識は、そのまま現在の学校教育にも当てはまる気がします。

努力はベクトル量である -『硫黄島からの手紙』 - 東京の井戸

これは当ブログの最初の記事ですが、勉強以上に

成果=努力の量×方向性

がなりたつ分野はありません。

知識を獲得する以上に、知識を効率的に、正しく獲得する「方法」を獲得することが重要です。

知識は時代や場所、状況でいくらでも使えなくなりますが、知識を獲得する方法を知っていれば新しい未知の状況にも自力で対応できるからです。

しかし学校は、必ずしもそれに応えてはいないと思います。

それどころか、「なぜ」という知的な活動の根源となる疑問さえ抑え込んでしまうような教え方が、平気でまかり通っています。

子どもたちに魚を与えるけれど、釣り方を教えないのでは、学校がなくなったとき子どもたちは新しい知識を吸収することができません。

そういう状況が、残念ながら散見されるように思います。*1

 

本書は「みずから考える」ヒントに満ちている

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そんな問題意識から、本書は徹底的に「考え方のヒント」を与えることに徹します。

「考え方」を与えるのではなく「考え方のヒント」と言ったのは、実は本書で述べられているのは「こう考えなさいよ」ということではなく、筆者の「わたしはこう考えている」というエッセイに近いものだからです。

考え方は本来人それぞれなのだから、私の方法はすべてさらすから、あとは皆さんで考えなさいよということなのでしょう。

2つほど例をあげてみます。

「ノートではなくカード」の例

筆者は考えること、同書でいう「知的生産」をすべて「カード」で行なっています。

ノートでは後から加筆したり、各ページを組み替えたりすることが難しいという反省から筆者自身が編み出した工夫なのです。

筆者はカードを常時携帯し、考えたことを小さな論文のように誰が見てもわかるようにカードに書き留めるといいます。(カードといってもB6の大きめのものです)

その根底には「忘れるために書く」という筆者の考えがあります。引用します。

カードは、わすれるためにつけるものである。このことは、カードのかきかたに重大な関係をもっている。カードにかいてしまったら、安心して忘れてよいのである。そこで、カードをかくときには、わすれることを前提にしてかくのである。

…自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、ということをわすれてはならない。 

『知的生産の技術』

 筆者は、記憶を頼りに知的な作業を展開してはならないと主張します。人間は忘れる生き物ですし、もっと悪いことに忘れたことを覚えていない生き物なのです。

ですから思考が前に進んでいるように見えて、同じところを行ったり来たりしているということも起こりうるのです。

その点、カードであればしっかり痕跡が残るので、自分の思考を後からたどることも、それを組み替えて新しい思考を展開することも自由自在というわけです。

いちばん重要なことは、組みかえ作業である。知識と知識とを、いろいろに組みかえてみる。 あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけない関係が存在することに気がつくのである。

…それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。

『知的生産の技術』

この記述を読むだけで、なんだかわくわくしてくるのは私だけでしょうか?

考えたことを記した大量のカードがある自分の部屋を想像するだけで、新しい教科書の山を見たときのような高揚感を覚えます。

 

「読書術」 の例

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読書にも、精神の糧という面と、心のたのしみとしての読書という面とがあるのではないか。栄養学と食味評論とがはっきりちがうように、読書論においても、技術論と鑑賞論とは、いちおうべつのこととかんがえたほうがよいということなのである。

『知的生産の技術』

この読書に関する記述は特に、私の長年の疑問を氷解させるものでした。

世間ではビジネス書でも小説でも同じ「読書」として片付けられてしまうようです。

しかしビジネス書や自然科学の書、社会経済の書などが理性に働きかけるのに対し、小説や詩は精神に働きかけます。似ているのは形式だけで、機能はぜんぜん違うのです。

読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。

『知的生産の技術』

筆者は「読書ノート」として、本を読んだときにパッとひらめいたことを書きとめる大切さを記しています。

しかしそこには「著者の言いたいこと」はいっさい書かないそうです。

なぜかといえば、著者の構成した文脈は、その本そのものであって、すでにそこに現物として存在しているからである。著者の文脈をたどって、かきぬきやらメモやらをつくっていたのでは、けっきょくその本一冊をそっくりカードにうつしとるようなことになってしまって、むだなことである。

『知的生産の技術』

筆者のいう「知的生産の技術」は単に知識を吸収するだけでなく、新たな知識や思考を創造することにその醍醐味があります。

だからこそ、読書も自然とこういう形になるのでしょう。

 

50年前の刊行なので、時代も感じられて面白い

この本は1969年の刊行です。じつに50年前。とうぜん内容も色あせているものと思いきや、著者の先見の明が随所に伺えて本当に感心するばかりです。例えば

情報産業とよぶことができるが、その情報産業こそは、工業の時代につづくつぎの時代の、もっとも主要な産業となるだろうと、わたしはかんがえている。

『知的生産の技術』

 

コンピューターのプログラムのかきかたなどが、個人としてのもっとも基礎的な技能となる日が、意外にはやくくるのではないかとかんがえている。 

『知的生産の技術』

このような記述は、時代の流れを正確に捉えていたと言わざるを得ません。1969年という、工業を基調とした高度成長期にこのような考えに至っていたというのは驚くばかりです。

筆者の生きていた時代というのは

 わたしの少年時代には、まだ毛筆がきの手紙はふつうだった。

『知的生産の技術』

というような時代なのです。

こういう時代を思わせ、また先の時代に思いをはせる描写はたいへん面白いものです。

 

おわりに

この本は、知的な活動にかかわる人々にとって古典になりつつあるということです。

確かに時の洗礼に耐えうる、洗練された古典だという印象をつよく受けました。

先ほど、「カード」の記述に触発されてA4を半分に裁断し、A5版のカードをつくってみたところです。

自分にあった知的な活動の方法を、ぜひ見つけられるといいですね。

以上、「『知的生産の技術』を読んだ。勉強こそ「方法」が大事」でした。 

 

*1:実態として、日本の教育はかなりの部分が学校ではなく塾に依存していると思われます。しかしながら、大手塾や予備校は受験に最適化されているので、普遍的な「学び方」を教える塾はほとんどありません。受験に関する知識だけを徹底的に効率化して教えた方が楽だし効率的だからです。