明石ガクト『動画2.0 VISUAL STORYTELLING』を読みました。
これから動画中心のメディアに移行していく中で、活字は廃れていくのか。そんなことを考えました。
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印象に残った言葉
あのヒリヒリするような体験はどこへ行ってしまったんだろう?
世界観が変わるような出来事がこの世にはたくさんあったはずなのに、いつしかそれが見えなくなっちまった。
『動画2.0』
スマートフォンは、ただ画面を小さくしただけじゃない。人間が映像コンテンツに触れる時間のセグメントを細かくしたことが、スマートフォンがもたらした最も大きなインパクトだ。
『動画2.0』
時間に対する情報量が濃いものを若年層が求めているということ
『動画2.0』
動画=情報の凝縮がある映像コンテンツ
『動画2.0』
エジソン的回帰時代のコンテンツは「あなた」のためであって「みなさん」のためではない。
『動画2.0』
スマートフォンが「情報の質」を変えた。どんな風に?
本書で取り上げられていた「変化」は、主に2つだった。そのどちらも、スマートフォンがもたらしたものだ。
1つは「映画に代表される冗長な映像コンテンツが、数分のYoutube動画のような凝縮された動画コンテンツにとって代わられつつある」ということ。
もう1つは「みんな」のためだった従来の映像コンテンツ(テレビ番組など)から「ひとり」のための動画コンテンツへの回帰が起きているということ。
順に説明しよう。
「動く画像」の主役は映像から動画に
まずひとつ目は、「動く画像」の主役がこれまでの冗長な「映像」から短い「動画」に移りつつあるという事実だ。
テレビ番組や映画など、従来の映像コンテンツは短くても60分、長くて数時間のものが主流だ。それに対し、Youtubeで1時間を超える動画を探すのは難しい。Youtubeの後に出てきたinstagramの「ストーリー」やTiktokは15秒だ。*1
映像から動画へ。その最も大きな変化は、尺が短くなっていることなのだ。
そしてその結果、情報を凝縮する必要が生ずる。視聴者は欲張りなので、「コンテンツが60分から5分になったので情報量も12分の1です」というのは許されない。より短く、より多くの情報を伝える競争が生じ、Youtubeでは話の「間」をとことんカットする編集技法が生まれた。
まとめるとこんな感じ。
映像 | 動画 | |
尺の長さ | 30分から数時間 | 数秒から15分 |
情報の密度 | 薄い | 濃い |
代表的なメディア | 映画・テレビ | Youtube |
さて、こうした変化は動画と私たちの時間軸にも変化を与えた。
映画は映画館に行かないと見られないものだし、テレビ番組はテレビの前に座る必要がある。けれど動画はスマートフォンで見られる。スマートフォンは、いつだって持っている。
だから私たちは、渋谷から品川に乗る山手線の車内15分、会社のエレベーター2分、トイレの個室1分と、短い時間を動画に使うようになった。
そこで提供されるコンテンツは徹底的に無駄を省いて凝縮されているので、私たちは久しぶりにテレビや映画の「映像」を見ると冗長でまどろっこしいと感じるようになる。
これが「テレビ離れ」の正体だ。
「みんな」ではなく「ひとり」で見る動画コンテンツ
動画は時間が短く、密度が濃くなっただけではない。画面のこちら側にも変化をもたらした。
いま、仲良い友達数人と集まってYoutubeを見ることはまれだ。テレビでは当たり前だった「みんなで見る」という文化は、動画にはない。
以前『闇金ウシジマくん』で登場人物が「ひとりでテレビを見ながらご飯を食べる母親」に思いをはせ、涙を流すシーンがあった。今でも強く印象に残っているが、「ひとりでNetflixを見ながら弁当を食べる若者」を想像しても、そんなに違和感はない。
以前ちょっとした待ち時間に友達の女の子とNetflixを見たとき、少し違和感を感じた。スマホのこちら側に誰か別の人がいる、というのはあまりないのだ。
ということで、コンテンツも当然「ひとり」寄りになってくる。つまりますますニッチになる。
「テレビの前のみなさん」に「三角関数の応用問題の解法」を教える番組はないだろう。でもYoutubeでやれば、全国の受験生が見てくれるかもしれない。
スマホは動画の質も変えたのだ。
活字の未来は暗い
さて、今までスマホの動画とテレビ・映画の対比しかしてこなかったが、スマホの動画が広いくくりで「エンタメ」である以上、その競争相手は多い。
スマホの中だけでもTwitterなどのSNS、ゲームアプリ、電子書籍やマンガなど多岐にわたるし、もっと広く見れば映画館など従来型の娯楽やラウンドワンやカラオケなど実体験型の娯楽も、全てが競争相手だ。
だが、活字の未来はかなり暗い。著者はこう言っている。
大人たちは「いや、テキストにはテキストの良さというものがあってだな」みたいなカビの生えかけた言葉で諭してくる。
まずは、そのドヤ顔の鼻っ柱にカメラのレンズをめり込ませてやろう。
『動画2.0』
かなり挑戦的な言い方だが、ビジュアルの強さをよく表していると思う。
例えば、このブログの下の方に「環境保護のためにご協力ください」というバナーが出ても、お金を振り込もうとする人は少ないだろう。でも、プラスチックを喉に詰まらせて苦しんでいるカメの画像を見せられたら、心が動く人も多いのではないか。
ビジュアルが直接脳に訴えかけるのに対して、文章は1回「翻訳」を必要とする。そこに動画の強さがある。
だが、『動画2.0』は活字で出版された。
誤解しないで欲しいのだが、活字の未来は明らかに暗い。
出版業界の趨勢を示すさまざまな数字は右肩下がりを続けるだろうし、この流れを止めることはできない。
ただ、1点『動画2.0』が活字で出版されたことは、本がまだしばらくは死なないことをこれ以上ないくらい明確に示していると思う。
だって考えてほしい。
大人たちは「いや、テキストにはテキストの良さというものがあってだな」みたいなカビの生えかけた言葉で諭してくる。
まずは、そのドヤ顔の鼻っ柱にカメラのレンズをめり込ませてやろう。
『動画2.0』
これを書いている人が、動画の凄さを訴えるメディアに活字を選んだのだ。本もまだ死んではいないと思うには十分すぎる根拠じゃないだろうか。
動画になくて、本にはあるもの
動画になくて、本にはあるものはなんだろう。
私は「まとまり」と「一覧性」だと思う。
まず、本には「まとまり」がある。読むのに1時間以上、場合によっては10時間くらいある本もある。でも、突き詰めればどの本も伝えたいことは1点、多くて数点に絞られる。『動画2.0』であれば、「これから動画の時代が来る」だろうか。
だから本の内容の99%は、その「伝えたいこと」をみちびくための例や理由だ。『反脆弱性』という本ではアメリカの医療の問題からキャリア、環境問題から自分のお金の守り方まで幅広い話題をあつかっていたが、言いたいことは「反脆さ」という概念だけだ。
そして、その理由や例には「一覧性」がある。
本の作者は目次や章立てを駆使して、自分が「伝えたいこと」までの道のりを読者に示す。だから、読者は後から本をパラパラとめくって印象に残った言葉や情報をふたたびかみしめることができる。このブログがやっているみたいに。
動画には今のところ、「まとまり」も「一覧性」もない。
「まとまり」はあるかもしれないが、本のように筋道立ててひとつの概念を提示するような動画はない。あったとしても、大長編になってしまうだろう。それはもはや映像だ。*2
「一覧性」はもっとない。誰しも、iPhoneで自分の見たいシーンに戻ろうとしてうまく探せなかった経験があるだろう。もうちょっと前だと思ってバーを動かすとうまく読み込めなかったりしてイライラしたことがあるのは、私だけではないと思う。
本は今のところ、残されたこれらの武器を使って動画と戦うしかないのではないか。
おわりに
活字を愛する(カビが生えかけた)者のひとりとして、この本は衝撃的だった。
だが現実に、活字から動画へのシフトは起こりつつある。20歳という世代のせいもあるのかもしれないが、それを肌で感じる。
ブログも活字である。まとまりと一覧性とを意識した記事づくりを心がけたい。
紹介した本はこちら。