東京の井戸

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強い人と弱い人 -中島義道『私の嫌いな10の人びと』書評

中島義道『私の嫌いな10の人びと』書評

今日は、中島義道さんの『私の嫌いな10の人びと』を読みました。

徹底して集団の通念を疑う姿勢とシャープな文体が小気味良い本だったので紹介します。

 

印象に残った言葉 

  1. 笑顔の絶えない人
  2. 常に感謝の気持ちを忘れない人
  3. みんなの喜ぶ顔が見たい人
  4. いつも前向きに生きている人
  5. 自分の仕事に「誇り」を持っている人
  6. 「けじめ」を大切にする人
  7. 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
  8. 物事をはっきり言わない人
  9. 「おれ、バカだから」と言う人
  10. 「わが人生に悔いはない」と思っている人
目次

 

彼女はなぜそういう笑いをまとうのか。まわりの人間が望んでいるからです。そうすると、好かれるからであり、そのことを知って彼女は自分の感情をコントロールしているのです。このことからもわかるように、この国では個人のむき出しの感情を嫌う。

第1章「笑顔の絶えない人」

 

感謝の気持ちを忘れないことはもちろん大切なことです。でも、おうおうにして現代日本では、これを知能指数ならぬ「人間性指数」とみなし、すべての人に高飛車に強制し、これが欠如している者、希薄な者を欠陥人間とみなす風潮がある。…

困ったことに、自分がそうして「常に感謝の気持ちを忘れない」ように心がけるだけでやめておけばいいものを、それを人類の普遍的法則であるかのように、すべての人に要求します。

第2章「常に感謝の気持ちを忘れない人」

 

この世は誰でも知っているように、どんなに努力しても駄目なときは駄目だし、たえず偶然にもてあそばれるし、人の評価は理不尽であるし、そして最後は死ぬ…

第2章「常に感謝の気持ちを忘れない人」

 

「みんなの喜ぶ顔が見たい人」とは、マジョリティ(多数派)の喜ぶ顔だけが見えて、マイノリティ(少数派)の苦しむ顔が見えない人なのです。

第3章「みんなの喜ぶ顔が見たい人」

 

生き生きと働かなくてよい。いやいやながら仕事をこなしていればいい。

第4章「いつも前向きに生きている人」

 

「嫌いだ」と言うことそのものに価値がある

昨日の『それでも人生にイエスと言う』の書評でも述べたとおり、嫌いなもの、嫌なことに対する姿勢は3通りです。すなわち、我慢するか、逃げるか、戦うかです。

著者の中島義道は自らの信念により、戦うことを選択しました。彼の嫌いな人は上にあげたとおり、日本では「良い」とされている人ばかりです。

私たち「普通の」人からしたら、彼の言うことには一部、というかかなり賛同できる面がある(だからこそ気味がいいのですが)一方で、それを実際に口に出すことは憚られる場合がほとんどです。

 

「ふつうの人」は「嫌いだ」と言うだけで大変

例えば、これは実際にあった会話ですが、私の先輩が私の後輩に対して受験勉強の方法論を説いている場面に遭遇しました。耳をダンボにして聞いていると、英語の長文が読めない、わからないという後輩に対し彼は「1回読んだくらいで分からない、と言うな。とりあえず10回読んでみろ。そうすればなんとなく意味が掴めるから」と言ったのです。

その後の数分間、私は怒り出したい衝動を我慢することに、全ての脳容量を投入しなければいけませんでした。いや、実際怒り出すべきだったのかもしれません。

語学において、「読めない、わからない」場合、それは明らかにインプット不足です。インプットが足りない状態で「10回読む」のは方向性を誤った努力です。

黙ってロゼッタ・ストーン*1か何かを印刷し、「先輩、これを読んでみてください。10回読んでみれば意味が掴めると思いますよ?」とでも言えばよかった。

しかしお察しのとおり私は先輩・後輩という立場を言い訳に「あなたのそういう行動至上主義なところが嫌いです!」と言う言葉を引っ込め、見事中島義道に嫌われる側の人間になってしまったのです。

こういう風に、ふだん多かれ少なかれ仮面をかぶって生活している私たちにはっと「本当のこと」を思い出させてくれる。のみならず、私たちが仮面をかぶっていること自体を思い出させてくれる。真の物書きだと思います。

 

強い人と弱い人

さて、以下私の主張。

世の中には「強い人」と「弱い人」がいます。なぜどちらかしかいないのか、中間がいてもいいじゃないかと思われるかもしれませんが、その疑問は後回し。

強い人、というのは自分の信念と感受性を持っています。もっと言えば自分だけの感じ方・考え方を持っていて、それらが統合されています。

いま簡単に感じ方・考え方と一括りにしましたが、これらが同じことはほとんどありません。

例えばある人は、人間はみな平等、差別はいけないと教わってきたし、それを当然だと信じていた。けれど、ある日相手の美醜で態度を変えている自分に気づいた。彼はそれを深く思い悩み、自分を嫌悪し、どうして外見で人を差別してしまったのか自問自答した…

これは感じ方と考え方が異なっていたという例です。このような例は無限にあります。ですから、私たちは自分を確立するために、感じ方・考え方を統合する努力を間断なく続けていかなければならないのです。

この努力を怠らず、「自分の美学・信条・価値観・感性とはこういうものだ。」と言語化できる人、そして行動が伴っている人、そういう人こそ強い人なのです。

反対にこういうことを考えるのを怠っている人、つまり自分の考え方・感じ方についてさして何も考えていない人は「弱い人」です。

なぜ弱いか。

自分の考え方・感じ方を持たない人の感性は、外からの影響に対する抵抗力を持たないので自然と大勢の考え方・感じ方に寄っていきます。それは、大勢の考え方・感じ方に自分の内面が支配されるのと同義です。みんなが行きたい場所に行きたくなり、みんなが買いたいものを買いたくなる。これが弱い人でなく何なのでしょう。

 

「弱い人」は強いふりをする。あまり気にしなくていいですよ

もう少し考えると、「弱い人」は強いふりをすることに思い至ります。

彼ら、彼女らの唯一の優位は自分たちが多数派である、という一点だけだからです。

よく小学生とか中学生とかのいじめの現場で「気持ち悪い」とか「うざい」とか罵声を浴びせられる、という図が見られます。

善悪は置いておいて、いじめられる子はなぜ「気持ち悪」く「うざい」のか突き詰めて考えてみると、「みんながそう思っているから」以外の理由がないのです。

これに気づいてから私は人と違っていることを指摘するタイプの罵声が気にならなくなりました。

「変だね」と言われたら「君は普通だね」と返せばいいのです。

 

「中間の人」がいないわけ

さて、ここまで読んだあなたはこう思われるかもしれません。「強い」と「弱い」の中間があってもいいじゃないか、と。

確かに私たちは特に考えていないことについては周りの考えに従いがちですし、その意味で「この分野では強いけど、あの分野では弱い」という状態は普通でしょう。

でもそれは、「この分野では強い」「あの分野では弱い」というだけであって、決して「中間」ではないのです。人間性や性格といったものは、決して多くの分野の「平均」なんかじゃないからです。

もし中間というものがあるならば、こういう人なはずです。先のいじめの例で考えてみましょう。

「中間の人」であるデイヴィッドはある日はいじめに加わっていじめっ子と共に石を投げ、翌日はいじめられっ子を助け、いじめっ子達を追い払った。

ちょっと想像しづらいですね。たぶん遠からずデイヴィッド自身がいじめられると思います。

かくして、様々な分野で私たちは「強い人」「弱い人」に別れます。

 

強い人はますます強く、弱い人はますます弱くなる

さて、強い人がその後どうなるのか見てみましょう。

いじめっ子を追い払った「強い人」デイヴィッドは翌日もその次の日もいじめられっ子をかばい続けた。やがてデイヴィッド自身がいじめの標的になった。しかし彼はいじめに屈することなく闘った。ある日いじめが教師に露見し、いじめっ子は手痛い制裁を受けた。

このように、強い人は世間の価値観にとらわれず行動し、しかも信念を守り続けているので、どこかで衝突が発生します。言い換えれば、強い人には次々と困難な試練、それもその人の信念が試されるような試練が訪れ、その人の強さが試されるのです。

一方で、弱い人は世間の価値観に従順なので、このような試練は訪れません。弱い人にとっての試練とは、「自分が世間から外れているのではないか」という試練であり、この試練を乗り越えることは弱い人がますます弱くなることを意味します。

かくして、強い人には強さを強化する試練が次々おとずれ、弱い人には弱さを強化する試練が次々おとずれます。

 

中島義道は「弱い人」が嫌い

こういう考え方からするに、中島義道は「弱い人」が嫌いなようです。「あとがき」から2文引用して書評を終わります。

 

世間の感受性に漠然と合わせている、世間の考え方に無批判に従っているような人は嫌いだということ。

あとがき

 

そのさい、その人のしゃべる言葉が鍵となります。定型的な言葉を使って何の疑問も感じない人。自分の信念を正確に表現する労力を払わない人。

あとがき

 

紹介した本

 

 

今週のお題「読書の秋」

*1:古代エジプトの文字とギリシア語が書かれた石。ナポレオンが発見した