今日は三秋縋『君の話』を読みました。小説です。
例によって、本の内容にはほとんど触れずに感じたことをつらつら書いていこうと思います。
心を震わされた表現の数々
死ぬ前に、たった一度でいいから誰かに褒めてほしかった。労ってほしかった。哀れんでほしかった。小さな子供を相手にするように、無条件にすべてを受け入れて、優しく包み込んでほしかった。
君の話
そうして私の死後、その死を嘆き悲しみ、一生消えない傷として心に刻みつけてほしかった。私を死に至らしめた病を憎み、私に優しくしなかった人々を恨み、私のいない世界を呪ってほしかった。
君の話
失うものがないから怖くない、なんてただの強がりだった。私は何一つ手に入れられずに死んでいくのが怖い。身体の震えが止まらなくなるほどに。
君の話
君が僕を信じられないのもしかたないと思う。都合のいい話がすべて罠に見えてしまう気持ちは、痛いほどわかる。…でもね、人生にはときどき、そういう何かの間違いが起こりうるんだ。幸福なだけの人生がそうそうありえないように、不幸なだけの人生もそうそうありえないんだよ。君は君の幸せを、もう少し信じてあげてもいいんじゃないかな
君の話
現実には(ほぼ)起こらない「運命の相手」との邂逅
三秋縋さんの作品はこれまで全て読んできましたが、
彼自身Twitterで言っているように、三秋さんは100パーセント合う運命の相手がいると信じています。
しかし、数多くの人の中から運命の人に出会うというのはものすごく難しいことです。
僕たちって多分、とっくに運命の人の2、3人とすれ違っているはずなんです。電車に乗ったり買い物をしたり散歩をしたりしている間に、人生が変わるような劇的な出会いをいくつも見逃していて、けれども一生それに気づかないまま終わるんです。出会うべき人同士が出会うって、とっても難しいことです。
— 三秋 縋 (@everb1ue) 2016年7月20日
だからこそ、三秋さんの作品には超自然的な設定がたくさん登場します。
寄生虫だったり、時間が巻き戻ったり、『君の話』では偽りの記憶(義憶)だったり。
まるで、「非現実的な何かがない限り、運命の相手と出会うなんてあり得ないですよね」といっているようです。
偽りの記憶で幸せな最期を迎えること
『君の話』ではヒロイン(もちろん主人公にとっての「運命の相手」)は義憶(偽りの記憶)によって幸せな最期を迎えます。
愛する人を残して死ぬのと、自分が残されるのと、どちらが幸せなのか。
たとえ全てを知らなかったとしても、幸せに死ねれば良いのか。
この永遠のテーマに対する、三秋さんらしい回答だなと思いました。
オススメできる人
死を身近に感じた経験のある人、過去癒しがたい心の傷を負った人、日陰がなんとなく落ち着く人にオススメです。
凍りついた心を優しく溶かしてくれる暖かさがあります。